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創業者 鈴木清一

ダスキン創業者 鈴木清一

1911年(明治44年)、愛知県碧南市に生まれる。就職後、肋膜を患い養母の愛情に救われた影響から金光教に入信。1938年、一燈園に身を投じ托鉢求道の生活に入る。1944年、ダスキンの前身であるケントク創立。以後「道と経済の合一」を願う祈りの経営を生涯追求。1963年、ダスキン創業。掃除用具のレンタル事業をフランチャイズシステムにより全国展開し、画期的な流通組織を確立。1971年、ミスタードーナツ事業の導入をはじめとする多角化に乗り出し、日本初の複合フランチャイズ企業として、ダスキン企業グループ及び加盟店を率いた。1980年、68歳で永眠。

ダスキン創業者 鈴木清一

創業者の足跡

1911(明治44)年
愛知県碧南市大浜の角谷家に生まれる。生名は清市。農家の六人兄弟中の四男であったが、三歳で鈴木家の養子となる。
1929(昭和4)年
東京都の私立中央商業学校を卒業。老舗の蝋問屋である合資会社川原商店東京出張所に入社。
1931(昭和6)年
肋膜炎を患い、養母の愛情に救われたのをきっかけに宗教的開眼。養母の信仰する金光教に入信。
3歳の時、義姉竹村なつさんと
1938(昭和13)年
結婚。川原商店大阪本店勤務となるが、結核を再発。故郷での療養生活中、無宗派無所有の修養団体である京都山科・一燈園の西田天香氏の著書「懺悔の生活」と出会ったことから、一燈園に入園。以後、托鉢求道の人生を歩むことを決意。
1939(昭和14)年
戦争で輸入困難となった蝋の代用品として「URワックス」を開発。
1940(昭和15)年
さらに本格的な代用蝋「高度ワックス」を開発。日本の特殊蝋開発の第一人者として名声が高まる。
1942(昭和17)年
川原商店勤務の傍ら、「高度ワックス配給協議会」専務理事として全国の関係者 200余名を集めた懇談会を開催。さらに「高度ワックス」を原料として日本初の板の間用艶だしワックス「ビキーナ」を開発。
1943(昭和18)年
西田天香氏に随行旅行。帰国を期に「道と経済の合一」の実現をめざす独立開業を決意。
1944(昭和19)年
ツヤ出しワックスが水溶性切削油になるヒントを得て、争いのない"拝み合いの会社"をめざすユシロ航空油剤製造株式会社を設立。祈りの経営の第一歩。
1945(昭和20)年
終戦とともに亡き友人の法名"一燈園謙徳恭像居士"から社名をケントク産業株式会社と改める。
1950(昭和25)年
株式会社ケントクと改名し、本社を愛知から大阪に移転。"板の間廊下のツヤ出しケントク"を積極的に売り出す。
1958(昭和33)年
ビルメンテナンスや清掃用品の販売を行う株式会社ケントク新生舎を設立。
1959(昭和34)年
キリスト教精神に基づく企業の民主化を進めるDIA運動の創始者エヴァンズ博士の講演に感銘を受ける。
1961(昭和36)年
DIA出席のため渡米。エヴァンズ博士から紹介されたカナダのメンデルソン氏と友情を結び、無償でダストコントロール事業の技術を伝授される。帰国後ただちにダストコントロール事業に着手。活性剤を用いて繊維に油類を吸着させる「含油繊維の製造方法」を特許出願し、商品試作にも成功して現在のダストコントロール商品の原形となる商品が誕生する。
1962(昭和37)年
株式会社ケントク新生舎と他社の合併による株式会社サニクリーン東京を設立。株式会社ケントクの株をジョンソンワックス社に譲渡。
1963(昭和38)年
大阪で代表取締役に山田宏氏を迎えた株式会社サニクリーンを設立登記。業務用ダストコントロール商品を相次いで発売するとともに、加盟店募集をスタート。加盟店14店29名が参加しての第1回加盟店実務研修会の席で経営理念を発表。11月16日には初のクリーニング工場「吹田工場」の開設記念集会を開催し、この日を創立記念日と定める。
株式会社ケントク新生舎のころ
1964(昭和39)年
株式会社サニクリーンを株式会社ダスキンと社名変更。家庭用「ホームダスキン」のテスト販売を開始し、1カ月足らずで約200件のレンタルに成功する。ケントク代表取締役会長を辞任。
1965(昭和40)年
株式会社ダスキン代表取締役社長に就任。「ホームダスキン」の大ヒットで加盟希望が殺到。リーダースダイジェスト誌への広告掲載でも話題を集める一方、加盟店に向けた「社長通信」を創刊。
1966(昭和41)年
米国式の契約で結ばれたフランチャイズではなく、愛情と誠実で結ばれた日本的フランチャイズをめざそうとダスキンフランチャイズチェーン全国連合会を発足させる。生名の清市を清一と改名。
1967(昭和42)年
日本経済新聞に「商魂の記録 ダスキン鈴木清一氏」が連載される。大阪府知事より産業功労賞を受賞。
1968(昭和43)年
米国・カナダでスタイナー社やミスタードーナツ社を視察。最初の教育施設で働きさん(従業員)の結婚式にも利用されたダスキンスクールや、働きさんの親睦団体クローバ会を設立するとともに、社内の全働きさんに向けた「社長週報」を創刊。初のテレビCM放映。
1969(昭和44)年
日本企業として初めて国際フランチャイズ協会への入会が認められる。全国ネットでのテレビCMも放映開始する一方、利益を目的としない物品販売をめざす株式会社喜びのタネまき会を設立。
西田天香さん、エヴァンズ博士ご夫妻と
1970(昭和45)年
日本企業として初めて国際フランチャイズ協会年次大会に出席のため、渡米。サービスマスター社やユナイテッドレントオール社を視察。ミスタードーナツ社、サービスマスター社などと相次いで事業提携をスタートさせる。
1971(昭和46)年
株主総会で空前の7割配当を可決して話題に。日本ダストコントロール協会が設立、初代会長に選任される。お客様に向けた「喜びのタネまき新聞」創刊。
1973(昭和48)年
国際フランチャイズ協会年次大会で講演。半生記『われ損の道をゆく』が日本実業出版社から刊行される。
1974(昭和49)年
大阪総アメリカ領事館でエコノ・トラベル・モーターホテル社より「国際ホスピタリティ賞」受賞。
ミスタードーナツ第100号八代ショップオープンの日、ハリー・ウイノカーさんご夫妻と
1975(昭和50)年
日本ダストコントロール協会名誉会長に就任。
1976(昭和51)年
胃の手術のため、住友病院に入院。著書『めい・あい・へるぷ・ゆう』がダイヤモンド社から刊行。
藍綬褒章受章。国際交流に尽くした功績により国際フランチャイズ協会から感謝状授与。
利潤を目的としない生活者のための流通チャンネル「愛の店」ネットワーク構築をめざすダスキン建国宣言を行う。
1977(昭和52)年
自らダスキンフランチャイズチェーン事業本部長を兼務して陣頭指揮で「愛の店」づくりに注力。
1978(昭和53)年
「愛の店」の活動指針を示した「社長メモ」を発表。
1979(昭和54)年
「愛の店からのラブレター」執筆を打ち切る。香雪記念病院に入院。社長職を駒井茂春副社長に譲り、会長に。
1980(昭和55)年
8月22日、入院中の阪大微研病院にて永眠。68歳。生前の功績に対して、従五位勲四等瑞宝章が授与される。
第1回フランチャイズ総合会議において、IFAより感謝状が贈られる
祈りの経営大学開校
社長メモを発表
『喜びのタネまき新聞』巻頭に、9年間にわたって愛の心を書きつづけた